剣町柳一郎の日々のつぶやきや愛読書、歴史エッセイなど楽書きしていきます。

生きる選択もない特攻

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特攻に出た方を訪ねて聞き取りをしようと思ったのは、短歌「卒業を水漬く屍と繰り上げて戦に出されし吾等の青春」からであった。特攻に出た彼の学友たちを追いかけ、訪ねることから始めた。取材して気付いたことは、特攻志願は志願の名を借りた軍の命令であったということだった。確かに、戦場は予科練生と海軍予備学生たちの血気あふれる青春の場でもあった。「国のために働く」名目もあった。ただ、彼らは命を喜んで自ら捨てただろうか。死に対して割りきっていただろうか。敗戦間近の二年間に陸軍も含めて約六千人近い若者が特攻死を遂げている。 本当に国を護るために特攻を志願したのだろうか。特攻されようとした方やその遺族の方を訪ねて聞き取りするに従い、家族の「生きていれば」と思う気持ちが伝わってくる。掲載前の拙原稿を読みながら、過日を思い出して涙する方や新たに心を痛める方もいた。戦争の痛ましさを悔いる言葉が次ぎから次へと出てくる。昭和十九年、二十年だけで、軍は予科練生を七万人集めている。血気盛んな十五から十七歳の少年たちである。彼らは飛行機に乗って空中戦をするつもりで入営したが、実際はもう飛行機はなく、空ではなく、待っていたのは海に入る特攻だった。軍はそのつもりで、少年たちに声をかけていたのだ。無謀とも言える、例えばベニヤ板の船で黒鉄の戦艦に向かうやり方であった。過酷な訓練を受け、特攻出撃前に終戦を迎えた声をいろいろ聞いた。
 戦争は悪いと口にする事は容易だが、悪くするのは人である。なら、過去の歴史から学べるものがあるはずだ。特攻で戦死した方が、戦後を生きていればどれだけ社会の役に立っただろうかという気がする。特攻の証言を集めていくと、家族の哀しみは死者の思いと同じように重いものであった。その重い記録と記憶が次代に残ることを信じて、戦争の悲惨さを伝えていきたいと思う。偵察機に乗っていた方が言われた。「当時、コックリさんが飛行士の間で流行っていました。戦友が帰って来ない時は真面目にしましたが、たいがいは郷里に残した彼女は結婚に同意してくれるでしょうかといったことを占うのです。不吉なことは避け、コックリさんはいつもにぎやかで笑いがありました」。命を惜しまぬ若者たちは占いで笑うことが唯一の愉しみだったのだ。哀しい話だと思った。戦後七十年の節目に、「十人の特攻」に取材をしながら、戦争は勝っても、負けても哀しいことが多過ぎる気がしてならなかった。国が迷走するこの頃、とりわけそう思うのは自分だけだろうか。

20年3月、松山基地にて
写真は二十年の松山基地にて

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