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阿部碧海の源流は長崎にあり

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阿部碧海の源流は長崎にあり
阿部甚十郎敬忠は千五百石の禄高前田主馬玄前の子として天保十二年に生まれ、阿部家の末期養子となる。奉行職にも就く家柄である。慶応元年十一月には藩主に上申し、砲術修行のため肥前長崎に留学。英語伝習所にも通い、若き大隈重信を見知る。翌年、加賀藩を愚弄した薩摩藩士に刀で斬り付けた近藤岩五郎の切腹事件の後始末をし、藩主から拝領物をいただいている。この時に覚えた英語が、所口(七尾)奉行となった慶応三年に役に立つ。イギリス公使パークス、書記官ミットフォード、アーネストサトウらがサーペント号で七尾の海を測量しに来た時、奉行の甚十郎が彼らと交渉している。『阿部ジュンジローが七尾を支配していた』とサトウが「一外交官の見た明治維新」に書いている。技師長サットンから写真を送られているゆえ、好感をもって彼らを応対したのだろう。北越戦争では馬廻御番頭に命じられ、官軍として出陣。ご一新が成った後は碧海を名乗り、士族の授産に走っている。九谷焼の生産と販売に手を染め、長崎で習い覚えた英語と交易を生かして輸出することを心がける。内外の博覧会に出展し、工芸振興の指導者として働き、士族授産に九谷を結びつけたところに先見の目があったといえる。碧海のしたことを「意志のテクノロジー」と呼びたい。いち早く刀を捨て、旧藩内の内紛にも巻き込まれずに「国」に目を向けている。またご一新後の薩長閥をものともせずに家党の世話をし、九谷焼輸出の際には多額の負債を抱え、倒産の憂き目にもあっている。それでもめげずに時代の荒波を生きて来たことはテクノロジーでなくて何だろう。

明治6年写真表

写真は長崎上野彦馬撮影場で撮られたもので、裏に明治六年十月中旬と書きしるされている。もう一枚のものは、お見せできませんが、算用場の高橋作善(東京大学の医学博士となる順太郎の父)、オズボーンの七尾語学所で学んだ久田孝太郎をはじめ、廣根芳樹、吉村政行が写っている。長崎の地で旧藩士の少年たちとの往き来があったと思われる。
阿部甚十郎の源流は長崎にあり、幾度も長崎に出かけていたのだろう。
参考・玉川近世史料館「阿部甚十郎旧蔵史料目録」より

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