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金沢の少年、それぞれの御一新

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ご一新は少年たちに何をもたらしたか。例えば、元加賀藩士の土岐儣と北条時敬、森次松、横地石太郎の足跡を追いかけると、金沢の少年が慶応四年の御一新をどのように迎えたかがわかる。四人は共に、金沢英学所(校)の同窓であった。英語は英国人ラムベルトに、数学を関口開に学んでいる仲である。

土岐儣は安政七年生まれ、上野田寺町に父無筆(なんと洒落た名であることよ)の嫡男として生まれ、明治二年に十歳で微禄切米三十俵の家督を継ぐ。同級に戸水辛太郎(寛人)、三宅雄次郎(三宅雪嶺)らがいる。勉学に励み、帝国製麻株式会社常務、第一銀行取締役、北海道製麻社長、京都織物会長を歴任し、渋沢栄一の信を得る経済人となる。東京では彦三町出身の三井銀行頭取・早川千吉郎、鶴間谷生まれの東京市長・井上友一らと親交を結ぶ。県の寄宿舎の本郷・久徴館の世話をし、自宅でも五十人もの若者の面倒をみたといわれている。貧しいが学問を志す者に我が身を見る思いがあったのだろう。士族ながら、商人の仲間入りを潔しとしたのである。

一方、北条時敬は安政五年に池田町に生まれ、土岐と共に啓明学校の上等四級に進み、東京帝国大学を出る。石川専門学校、高等中学校教授、四高の校長を経て、学習院院長、貴族院議員にまでのぼりつめた。土岐とは平沼騏一郎の「報徳会」で再会する。大出世をとげた両人には、十歳で迎えた御一新はまさに回天であったといえよう。

では、森次松と横地石太郎の場合はどうであったろうか。ともに、小立野与力町に百石の家禄に生まれ、二人の親は揃って武士の商法で失敗し、農業に従事。明治八年八月に、二人は東海道を本郷・前田邸内の学問所に向かう。前田利嗣の学友に選ばれたのである。月七円の手当てを貰うが、一年で学問所は閉鎖。慰労金として百三十円をいただく。森次松は金沢に帰省。父の定孝が「百姓に学問は不用なり。百三十円の金子あらば更に何石の田地を購ふことを得べし」といったからである。次松の姉である貞は長連豪の妻となるが、島田一郎らと決起した紀尾井坂での大久保卿暗殺事件の前に離縁されている。事件が類に及ばないように配慮されたのだ。また、父定孝は本多政均暗殺に係わった一味のひとり菅野輔吉とは従兄弟にあたる。惜しくも、次松はペンを持たずに、鍬を手に早くして逝ってしまう。

明治元年、長連豪は十五歳、島田一郎は二十歳、うつうつと新政府に不満をつのらせる彼らにとって、ご一新は時代に叛意をもたらしただけであった。あるいは、彼らの頭には国ではなくて、狭い藩しか世界がなかったのだ。同じ加賀藩士にあって、大久保卿暗殺事件を起こした若者と少年たちの「齢の差」がここにある。

横地石太郎は和次郎の嫡男で安政七年生まれ。百三十円の慰労金を学費となし、開成学校から東京帝国大学化学科に学び、愛媛尋常中学校では教務主任で後に校長に、かの夏目漱石先生と一緒になる。「坊ちゃん」の赤シャツのモデルといわれるが、真偽のほうはどうであろうか。その後は山口高校校長になり、貴族院議員となって大礼服を着る身分となる。

歴史は奇縁が重なり、人が人を呼ぶ。泉鏡花がいうところの鬼神力である。ご一新は、佐幕派についた加賀藩にあっても、時代に乗り遅れた少年に「晴れ舞台」を提供してくれていたのである。そしてそのためには、東京に出るしかなかった。

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