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水彩画を描いた武士、矢野倫真

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京都府画学校を出た、金沢出身の本多家陪臣・矢野倫真は元治元年十二月生まれ。画学校には明治十九年に入学している。大叔父は有名な本多の仇討ち(日本最後の忠臣蔵)をしたひとりで、中条流富田流の師範・矢野察倫。

松山時代の倫真について語りたい。明治二十二年秋から二十六年夏までの間、伊予松山で図画教師として四年間過す。当時、北陸線は敦賀まで来たばかりであるから、金沢・敦賀間は歩きである。金沢・敦賀間が全通するのは三十一年四月まで待たねばならない。おそらく、京都に出た後、神戸から松山の外港三津ヶ浜まで船に乗り、前年にできた軽便鉄道で、晩秋の松山に入ったものと思われる。

金沢出身の教師が他に伊予愛媛尋常中学校に勤めていないかと調べてみた。すると、二十二年一月から舟木文二郎が首席で勤めていた。彼は旧長家の陪臣・舟木磯八の二男で、金沢市穴水町から来ている。二十六年から勤める山本孝太郎は数学教師で茨木町出身。二十七年九月から勤める、歴史の中村宗太郎は材木町出身。教頭から校長になる、化学博士の横地石太郎もいる。彼の父・大十郎は大筒御歩並で、明治六年には八十五俵禄、与力町一番丁に住み、石太郎は旧藩主前田慶寧の後を継いだ前田利嗣の学友として召し出され、東京帝国大学応用化学科を卒業している英才である。中村宗太郎は、当時、歌われた「松中・数え歌」に、「五つとや、いっつ色男中村さん」と歌われているので、さぞ美男子であったことだろう。半藤一利氏の『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫)では、日清談判破裂し、と棕櫚箒を抱え、送別会で裸踊りをしたと書かれている人物である。遊びが過ぎて、遊廓から中学校へ出勤したとか。松山に赴任する前の松江中学校では、かのラフカディオ・ハーン氏を遊廓に誘っている。ハーン氏が逃げ回ったことが、横地氏の思い出話に書かれている。中村は矢野とは松山ですれ違っているが、京都で一緒になる。中村は京都府第一中学校学友会会録に陸上運動幹事や庭球部幹事として掲載されている。休職を命じられているが、京でも遊びが過ぎたものだろうか。

こうして明治二十年代、金沢出身の若者が教師として、遠く伊予まで行っていることに驚かさせられる。松山東高校同窓会事務局のMさんに電話で訊ねたところ、「確かに金沢出身の方が多いようですが、その根拠が見当りません」とのこと。校長の山崎忠興は北宇和郡出身で慶応閥である。彼が人事権を使って引っ張ったとは思えない。下級武士の子息が生きていくための選択肢として、旧制中学校や師範学校の教師への道があったに違いないが、彼らの足跡が今ひとつ追いかけられない。ただ、加賀藩には、学識を資産とする、下地としての勉学と情報網があったのだろう。新政府につながる俸給職である教師は見逃せなかったに違いない。尋常中学校生徒は、当時の文相である森有礼が言うところの「社会の上流をめざす」エリートの卵たちである。そこでの教師もまた、いちおう選ばれたエリートであった。彼らが武士の商法で、給禄の資産を食い潰さなかっただけでも幸いである。

さて、ここに一枚の写真が残されている。裏に明治二十三年春、米国人ノイス氏解雇帰国に付き送別会を開き、記念撮影とある。右上段三段目に、倫真が立っている。倫真の左横が渡辺政和、その前に山崎忠興校長、左隣りに主役ノイス、その隣りに舟木文二郎がいる。前列中央でしゃがんでいるのが中堀貞五郎である。中堀はやがて、正岡子規の妹を妻とするがすぐに離縁される男である。写真の裏に、渡辺政和のことを山アラシ、中堀貞五郎をウラナリとも書いてある。後日、矢野が漱石先生の『坊ちゃん』を読んで、当時のことを思い出して書き加えたものだろう。余談ながら、矢野倫真は助教諭心得で月俸十六円だったが、彼が去って二年後、漱石先生は八十円の外国人待遇で迎えられ、横地は六十円であった。矢野倫真は道後温泉にも出かけたと思われるが、「坊ちゃん」が泳いだといわれる本館の湯は、矢野が松山を去った翌年に建てられたものであり、倫真がいた当時はまだ工事中であった。時代は日清戦争の前年、日本は世界の一等国へと驀進しようとしている時である。

話は前に戻るが、倫真は元治元年生まれの加賀本多家陪臣で、明治十九年に京都府画学校西宗に学んでいる。矢野倫真の旧姓は小竹で、金沢城下風呂屋町に住んでいたが、明治二年に同じ町内に住む矢野三内忠倫のもとへ養子に入る。忠倫の娘が、九十石小竹平左衛門直正の後妻に入っていたからである。いわば、祖父の家に養子として入ったことになる。そして、倫真には虎一という兄がいた。小竹虎一は本多家の私学維新館で英語を教え、明治八年には石川県下等小学師範科を卒業。維新館では、漢籍を教えている三宅恒(雪嶺の父)や戸水信義らとともに出仕。ここまでは順調であったが、その後、虎一は竪町戸長役場筆生をしたり、漁業権を買ったりして、禄が無くなる中で武士の商法をするものの、借金がかさんで行く。ほとんどの下級武士がそうしたように、十九年には地所を売り渡し、住まいを変えていたりしている。小竹幾久栄のことについて書いたエッセイにそのあたりをふれた。近所の鈴木大拙の家もそうしている。鈴木家も本多家陪臣であった。小竹虎一家では、その間、明治十二年六月二十二日に長女幾久栄が生まれ、十五年四月には次女近が生まれている。この長女幾久栄こそ、岡山から出てきた十九歳の若者・竹久夢二から、「姉様」と呼ばれることになる女性である。

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