剣町柳一郎の日々のつぶやきや愛読書、歴史エッセイなど楽書きしていきます。

歴史にあとがきはない

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 夜が来ると記憶に下りて行くのが好きだ。歳をとったからだろうか。埋もれたものを捜し出す、秘密めいた愉しさがある。諦めの感が強くなると、虚無の目が捉えるものがある。何が可笑しくて、何が立派であるかが見えてくる。それゆえ、わたしは古典の中に「尋ね物」を捜しに行く。森鴎外が明治から大正に移り、日本がモダニズムやデモクラシーに取りつかれた時、いま一度、彼は歴史小説や史伝を書き、江戸が持っていた姿を今一度見極めようとした。そうした鴎外の小説に人気はなかったが、彼は世におもねることはなかった。古いものと、古くさいものは違う。そのことがわかるまでに、私はおじさんになってしまった。今、私は夜更けの読書のために過去に下りて行く。漱石、子規、鴎外、龍之介、兼好法師、西行、和泉式部や清少納言まで、彼らが書いたものを読みたくなる。デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帖』のように、いろんな記憶がめぐる。記憶は物語となり、やがて小さな歴史となっていく。伊太利亜の監督フェリーニがインタビューに答えて、映画の真実よりも映画の嘘つきの方がいいに決まっていると、言っていた。好い言葉だと思う。ベルイマン、ゴダール、アントニオーニ、溝口健二といった監督の映画を観に出かけた日々。映像を通して、作家は嘘つきだが誠実な人間であることを教えられた。歴史・時代小説には嘘があり、まさに物語である。物語が現実で、現実が物語のようにさえ見えてくることも知った。ただし、歴史にあとがきはない。淡々と時間が過ぎ、刻々と老化して行くだけだ。老化の後に新たな新生があるだろうか。物語を仮託された武士や商人は、今夜も掛行燈が灯る北国街道を歩いていく。そんな歴史を引きずりながら「櫻坂」を登る十年は一瞬だった。

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