剣町柳一郎の日々のつぶやきや愛読書、歴史エッセイなど楽書きしていきます。

夢二のいちばん古い筆跡

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数年前の春。うらうらと陽が照る日、桜が咲く湯の町を歩いて、「金沢湯湧夢二館」に出かけた。平山延雄夫妻、弘重明子夫妻が小竹幾久栄さんの若き頃の写真をお持ちして、金沢を訪ねてくれたのだ。その写真はセピア色に変色した縁側に腰掛ける、面長で二重瞼の女。まさしく竹久夢二が好みそうな美人顔である。もう一枚は韓国・京城で撮ったもので、横に立つのは夫の山崎駿二。真中にいるのは姪の初葉で、幾久栄さんは金縁の細い眼鏡をかけ、理知的で、今風の美人である。とても百年前の女性には見えない。左の写真は、小石川の初音写真館で撮ったものだ。明治三十五、六年の頃で、右の女性が幾久栄さん。真ん中が春生さん.左が妹の近さんだ。

小竹家のことを調べていたのは、石川県美術館での「矢野倫真水彩画展」(平成十八年夏)の準備をするためであった。そして、展覧会に合わせて、小竹家の末裔の方々が金沢を訪れた。倫真の実家である小竹家の歴史を話している時に、ふと倫真の姪である幾久栄の話がついでに出てきて、夢二との関わりを偶然に知った。

小竹幾久栄は、十九年に金沢鱗町女児小学校に通い、やがて石川師範女子部に入学するが、三十三年四月に中途退学をする。小竹家ではこの頃、借金がかさみ、その追い立てにあい、金沢には住めなくなったからである。借金が多額であったことが、金沢区裁判所判事小場良景なる人物からの招款状でわかる。妹の近は相州大磯字小磯中丸切通の吉田別荘で吉田茂の母堂の看病をし、その後、日露戦争に従軍看護婦となっている。近は姉に援助をし、知り合いの女性から金を融通してくれるように頼まれた折りにも助けている。幾久栄は自分の窮乏を棚に上げて、人を助けようとする、人がいいところがあったのだろう。暮らしに余裕があった時もあったようで、幾久栄は挿花免代松声斎なる人物から、歓長女幾女子という号を、明治二十五年八月にもらっている。生け花の免許状である。金沢を出たのは、師範女子部を中退した以後で、父虎一の死去(明治三十四年六月)にともない、三十四年六月十八日に小竹家戸主となっている。幾久栄には、三十四年十二月二十日付で、東京府第四一五号の准教育試験合格の通知が残っており、国語、算術、地理の教師として、東京府からの採用通知である。話が重なるが、幾久栄は明治十七年生まれの夢二より五歳上であり、三十九年の秋、夢二が早稲田鶴巻町の絵はがき屋「つるや」で出会う、金沢出身の岸たまきと同郷であることを考えると、夢二がたまきと縁を結ぶ前に、金沢出身の小竹幾久栄がいたということである。岸たまきは小竹幾久栄と同じく加賀藩士族の娘であり、夢二の二歳上。金沢味噌蔵町出身のたまきは、金沢時代に本多町出身の幾久栄と面識がなかったものか…接点を調べるが親交はなさそうである。ただ、ふたりは金沢、士族、年上、才媛といった言葉でつながっていく。そして、夢二はたまきと知り合う際、金沢のことは幾久栄から聞いて前知識があったということになる。小竹幾久栄は、十九歳の茂次郎(夢二)がはじめて会った金沢美人である。その後、周知のごとく、夢二は岸たまきと結婚することになる。同じ頃、幾久栄は元加賀藩士七十石で東京帝国大学で法科を学んだ山崎駿二と一緒に。山崎家は山崎庄兵衛五千五百石の遠縁につながり、小立野の旧山崎町(現石引二丁目)にあって、駿二は父忠左衛門有将の次男である。長男は延吉で、安城市に住み、日本の農業改革をした有名人である。後日、金沢野田山の山崎家の墓所の一角にふたりの墓がある。なお、駿二の仕事柄、ふたりは京城南山町に棲んでいる。

幾久栄と夢二は明治三十五年頃に東京本郷で出会う。歴史の不思議と思うのは、ふたりの出会いが偶然だからである。その時、雨が降っていた。その時、荷物を届けにきた。それだけのことから話が交わされ、物語がはじまったのだ。車夫をしながら学校に通う夢二を見て、幾久栄と母の春生が愛しく思い、時には家に遊びに来るようにと声をかけた。小竹家の人には互いに助け合って生きなければならないという思いがあった。男と女の出会いはいつの時代も変わらぬものらしい。幾久栄と夢二の間には、想像するしかないが、年下の少年が年上の女を思い遣るような視線があったと思われる。幾久栄が貰った、夢二の写真裏の文言がそのことを物語っている。まさに、青春の告白であり、恋情を吐いているようである。

「生後僅かに十九年、長いやうな短いやうな、岸にさくさへままならず、沈で見たり浮ても見たり、(中略)芋でつなげる安価の命成らば天へも登って見せる、妻があるでなし子があるでなし、若しも破れりやそこが墓。姉様へ 僕より」

この文言が記された、十九歳の夢二の写真、及び幾久栄の写真は「金沢湯湧夢二館」に寄贈されて展示されている。十九歳の夢二写真は貴重な写真である。 しかも、その裏には現存する、夢二のもっとも古い筆跡もある。「幾久枝さんと駿二さんが朝鮮へ渡った後も、幾久栄さん宛に夢二から手紙や画が送られてきていたみたいですよ。祖母の近が話してくれました」 と、近の孫にあたる弘重明子さんが口にした。

夢二研究家の長田幹雄氏は、姉さまの文字が入った画を、『夢二画集・夏の巻三十一図』に見つけている。「霧の裏門からおくられた。姉さまと呼むでいた。朝の霧は深かった」との文字が添えられている。(『太陽別冊』一九七七年)

歴史に「もし」はないといわれるが、幾久栄と夢二の浪漫がもし結ばれていれば、湯湧の温泉を訪れた伴侶が、たまきではなく、小竹幾久栄だったかも知れない。ただ果して、そのことが幾久栄にとって幸せであったか、どうかはわからぬが。桜の花の下で、ふとそのようなことを考えてみた。

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