剣町柳一郎の日々のつぶやきや愛読書、歴史エッセイなど楽書きしていきます。

史実とフイクション

 小説は作品である。人間の一生をありのまま描くよりも、少しの嘘をまじえてこそ、本物に近づける。発見した事実に基づく研究論文には嘘や想像はいけないが、小説はフイクションである。少なくともわたしはリアリティを出すためのフイクションこそ、小説だと思っている。一枚の写真から文から、人の物語を推理し、人の生を解いていく。
大正七年に発表された芥川龍之介「奉教人の死」は、『たとひ三百歳の齢を保ち、楽しみ身に余ると云ふとも、未来永々の果しなき楽しみに比ぶれば、夢幻の如し』の序ではじまる小説だ。芥川は小説の末尾で、「奉教人の死」のモチーフは「長崎耶蘇会出版『れげんだ・おうれあ』下巻・第二章による」と記している。西欧の聖人伝として実際に存在する書物だが、長崎で出版された『れげんだ・おうれあ』はあくまでも芥川が創作した架空の書物である。しかし、小説の発表と共に『れげんだ・おうれあ』は実在する書として、話題を巻き起こし、書の実在を信じた好事家が現金を送り、譲渡を願うほどの騒ぎになったといわれる。丁寧にも下巻・第二章と記したゆえ、世が騙されてしまったようだ。芥川龍之介が使った手はまさに、リアリティを出すためのフイクションといえないだろうか。
さて、おしなべて史実は主君に対しての古文書によるものが多いせいか、視点がひとつしかないところがある。三成が悪い、光秀が謀反を起こした、淀殿は性悪女だったなどは、徳川幕府の目で見て、そのようなイメージを植えつけてきたと思われる。ところが家人宛の書状や日記などの私物には、読まれることを意識しない「本当のこと」が得てして書かれている。正史に対して、稗史と呼ばれている。多分に、フイクションが加味されているに違いない。それでも、当時の暮らしが見えてこないことがある。それゆえ、専門家に大いに教示されたいとも願う。以前、描いた時代の奉行にその名はないはずと研究者のご指摘を受けた。そのお方は「小説だとわかっていながら、気になって仕方がない」といわれた。確かに気になることだろう。ただ書き手としては、強い剣士としての名が欲しかったゆえに、あえて勝手にこしらえさせていただいたのであるが、そこまで留意して読んでいてくれたのかと思い有り難かった。どこが虚であり、実なのか。例えるなら、史実が「素材」とすると、小説は素材を生かして味をつけた「料理」となる。美味しい料理をつくれないのは、材料の味を引き出せないからだと反省する。
小説を書くことは近松門左衛門がいう「虚実皮膜の間」に人間の真実を描くことにあるが、たんに虚実の間に遊んでばかりいるわけにはいかない。大きな嘘をつきなさいと、薦めてくれた作家もいる。大きな嘘で人間の真実をつかまえなさいと言われたと、解釈している。小説はフイクションを加えることで生き生きと動き出すが、そのエネルギーの根底には、古文書を読解、探索に苦心された研究者の書本を参考にさせていただいている。有り難いことだと心から感謝している

Copyright © Ryuichirou Tsurugimachi All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.