剣町柳一郎の日々のつぶやきや愛読書、歴史エッセイなど楽書きしていきます。

健さんに捧ぐ。

 緋牡丹が咲く明治時代。「義理は重い」という花岡(高倉健)。一宿一飯の義理のために止む無く、杉原老人に斬りつけるが、出下に手を出すんじゃない、これは音の勝負だという杉原親分。わざと急所をはずして斬る花岡。斃れる杉原親分は瀕死の重傷を負いながら、無事熱田神宮の大花会に出席し終えてから死ぬ。そもそもの花岡が緋牡丹のお龍さんに番傘を借りて、その柄のあたたかみにふれることから二人の出逢いが始まる。ところが、花岡が草鞋を抜いた先は金原のところ。いやな展開が予想される。土手の上を往く蒸気機関車の白い蒸気が印象的。このシーンは以前この映画を池袋・文芸座地下で見たことを思い出させた。ローアングルの監督加藤泰らしい演出だと感心させられた。
 さて時代は明治中頃、日清戦争に勝ち、世界に躍り出ようと富国強兵の日本。新興やくざで洋服を着込んだ金原、かたや侠客と呼ばれ、着流し姿の杉原の親分。彼はいわゆる天保老人。新旧ふたりの親分で名古屋の湾岸工事の利権争いに花札が舞う。花岡とお龍さんはご一新時の生まれか。お龍の偽物、おときさんの登場。その娘で目の見えない子、駆け落ちする金原の娘と杉原の大学生の息子。世間知らずの若者や苦労した女が繰り広げる世界。やくざな世界に波紋を投げるのはいつもこうした純情な人物だ。伏線が幾筋も張られ、物語はめまぐるしく展開する。嵐寛寿郎と高倉健の演技がいい。義理と筋目を通す仁侠を美しく見せる。ところが文明開化が入って、そうした男たちの美しさが消えて行く。漱石が『三四郎』の中で、汽車の中で広田先生から、「日本は一等国にはなれない。むしろ、だめになっていくね」と言われるように。
 六十年代、政治が混乱した時代と現代を比較してみると、日本人も変わったものだとつくづく思う。今、『緋牡丹博徒』あるいは『昭和残侠伝』を見て、どれだけの若者が心を動かすものか。古い!の声で片付けてしまうに違いない。杉原組の若衆が金原に大花会の賭博金を盗られて、「汚すぎるぜ」と吐くセリフ、怒りを忘れた現代人はどう受け止めるだろうか。義を忘れた汚れた男たちと、義を通す男の対立。映画は、花札の花、雪と蒸気、色を上手に見せてくれる。一宿一飯の義理はそんなに重いものなのか。金原たちを斬り、お龍さんに「おたっしゃで」と言って去る花岡。カメラの片隅に紅の寒牡丹が入る。金原組に殴り込みをかけた花岡は警察に出頭し、『緋牡丹博徒』は終わる。お龍さんの高音の唄が背景に流れる。「女だてらに渡世に生きて」お龍さんは一宿一飯の旅に出る。「悪を斬る、これほど美しい魂が日本にあったのか」の余韻が残る。映画のスクリーンに写し出される幻想だ、といってはそれまでだが、六十年代に人はこの映画を見て心が納得させられていたのだ。悪に対して怒っていた。いったい何が日本人から怒りを忘れさせたのだろうか。笑顔の外道は何時の時代にもいるものなのに。

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