剣町柳一郎の日々のつぶやきや愛読書、歴史エッセイなど楽書きしていきます。

からくり弁吉

 動くはずのないものが動くと、見ている者の心も動くものである。それが機巧術であり、平たく言えばからくりである。頭の中の科学やテクノロジーが形になったものである。時代は幕末、弁吉は宮腰湊の隣り大野に住んでいた。ゆえに、大野弁吉ともいう。享和元年の京生まれ、号は一東。中村屋うたと婚姻し、中村弁吉に。ご一新を迎えて、明治三年五月に七十歳で没。北前船の廻船問屋の主たちは、弁吉が作る物の珍しさに西洋の新しさを感じた。そうであろう、諸国の産物やいろんな人と触れあい、異国の出来事をいち早く聞き知る彼らにとっては、からくりは新しい時代の息吹きであったはずだ。勤王、佐幕と興奮する武士とは関わりはなかった。藩という枠もなく、商人たちの心を動かすモチーフと発火器や飛び蛙、自噴水が「動く」ことに目を見張ったのである。弁吉は商人たちに気に入られ、ますます商いに役立ってもらおうと諸道具を作る。金は商人の手にあったからだ。「用」は頭を熱くさせ、考える範囲を広くする。長崎や対馬、朝鮮で学んだ弁吉の手と頭は『一東視窮録』を書き、藩の洋学校・壮猷館に出入りを許され、門人を育てた。やがて、津田米次郎の力織機の発明とつながっていく。今日に至る、金沢の産業の一役を担うことになる。また弁吉のからくりは観音院や大野の浜で大いに演じられ、町人や武士から喝采を得た。
 さて廻船問屋といえば名高い銭屋五兵衛がいる。あるいは丸屋伝右衛門。当時、富山藩が薩摩藩とも手を組み、清国との交易で薬種を手に入れていた事は知られるところである。おそらく、銭屋もそのひと役を買っていたと思われる。水晶を磨いたレンズを使用した望遠鏡で南蛮諸国や遠くオーストラリアの近くタスマニアまで船を出していたともいわれるが、その事実は定かではない。弁吉の技術が遠洋航路に役立ったとの証はないが、南十字星の下を旅したロマンは推理できる。クジラの髭を利用した発条や歯車、梃子を使ったお茶運び人形。油が尽きることのない無尽灯、電気を起こすエレキテル。写真術では、自分の肖像や銭屋喜太郎と並んで撮った湿板写真イヨジーユム鏡。新しい発想はいつの時代も全て妖しいものである。つまり、弁吉は謎の多い曲者であった。人を診る医術さえカラクリとされた時代にあって、弁吉こそ希代のからくり細工師であり、時代の大吉であった。なお、弁吉の作品を展示する「からくり記念館」は大野町にあり、弁吉の墓は伝専寺にある。往古をしのぶ面影はもうないが、晴れた日には細い路地の奥に弁吉の影が立つという。

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