秋晴れの日曜日の午後、加賀大聖寺へ。
古社、菅生石部神社境内での「敷地物狂」能を見に行く。
文化庁の地域活性化事業のイベント。勧世流の大槻文蔵師が演じる、
幻の能である。子と別れた母がようやく、
高僧となった我が子松若にめぐり会う物語である。
数十年後、落ちぶれた姿の女の菰からこぼれる文。この文こそ、
故里を出る際、松若が別れる母に書き残した文であった。
はじめは、松若が読み上げ、ついで暗誦していた母が読み、
やがて二人で声を揃えて文を読み終える…。
一緒に見た友は泣き出した。家人もしんみりとして鑑賞していた。
能に心を動かされたのは、わたしも初めてだ。謡の細かい意味は
わからずじまいだが、手許に能を読み下した文章があり、それで筋がわかった。
母と息子の関わりは、母と娘の関係以上に熱いものなのだろう。
秋の陽射しが杉の大木を透かしてこぼれ落ちる。
途中、飛行機が能舞台の上を、青空を横切って行った。
こうして室町時代からの時間の流れが不思議な気がした。
世阿弥が衣を翻せて宙を翔て行った。
能といえばとかく難しく、金澤の能舞台で数度しか観ていないが、
眠くなるのがいつもである。であるが、「敷地物狂」には、心が動かされた。
世阿弥の娘婿、金春禅竹の作品である。
哀しいストーリーは観る者の泪をいつも誘うものだが、
能は、映画を見ることや小説を読むこととも違う。現世ではなく、
夢幻の世界を泳ぐようだった。黄泉の世界に遊んだという気がする。
まさに、批評家K氏がいうように、
能を通して観るものは「無常といふこと」なのだ。