都会に住む読者は、この本で田舎を少し知り、古代を知るだろう。
田舎の読者は、人の業と自然の営みの後悔を知る。
「土の記」は土に生まれ、土に還ると言う比喩かも
しれない。「土の記」は高村薫著の新作。
初めは読みにくい文体だなと思いつつ、ページをめくる。
古代に栄えた奈良の田舎にあって、
妻を事故で失くした男、伊佐夫。
妻の昭代。その妹の久代。鯰の花子。
娘や孫はニュヨークで住む。
秀逸なのは村人の描写だ。
それぞれの顔や声が聞こえてくる。
「楢山節考」の深沢七郎を思いださせる。
棚田の畑や水田、蛙や蛇、魚や鳥と棲む伊佐夫。
稲の生育や野菜のこと。作家は都会人なのに
ほんとによく調べられたと思う。時代を追う高村薫氏。
あの「トーマスの山」を書いた同一の作家とは思えない。
稲と雨降り、土がもたらす妄想と現。
まさに「土の記」そのもの。
惚けていく伊佐夫の姿は、老いていく団塊の世代には
身につつまれる。惚け、物忘れ、記憶の混濁。
時代を予感するものが小説ならば、小説の怖さ、
老いていく事実をつきつけられることになる。
泉鏡花は、おどろおどろしい魔物に触れ、
その空気感にひたることで、幻を知ったが、
「土の記」は、その現実感から遊離していく物語が、
時空を越えて心を満たす。
遊離感を覚えるのは老いた証拠でもある。
「土の記」には夢というより、妄想が出て来る。
東北の大地震が奈良の地でも震えている。
老いることが如実に表現され、地が崩れて、
まるで自分が魔物になるようだ。と思うのは、
まだ微かに、若い記憶の中で生きているからに違いない。
その意味で、この小説は鏡花の作品と
どこか似ているような怖い浮遊感がする。
降り続く雨音の怖さでもある。