金子鶴村のことを学ぶひと時があった。
歴史研究家の池田Jさんが話してくれた。
白山市旧鶴来町で生まれた儒家。
京では皆川淇園に学び、31年間に及ぶ日記を書き残している。
文人として、いろんな人と交流。皆川淇園、浦上玉堂、
吉田屋伝右衛門、当時の文化を司る人たちだ。
白山市の田舎にあって、日本を見詰めていたことに
驚かさせられる。その好奇心。書かれた日記31年分がすごい。
たいへんなエネルギーである。
折々の天候から食いもの、集まった人の名。
文化元年、金沢の重臣である今枝家に召し抱えられ、儒家として扶持もいただく
身分となる。さぞ嬉しかったに違いない。
ふるさと鶴来村を愛し、町の俳人たちとの交流を重ねている。
そして、かれらが勤皇を支え、世を変えようとし、
京に学ぶ若者たちに餞別を与え、金を工面していくことに
つながっていく。このネットワークこそ、時代的なものというより、
社会構造に組み込まれた企てである。小さな村にあって、藩を動かすだけの
人を養育して行くのだった。現代に、見習いたいもののひとつである。
金子鶴村はその意味から、今一度再考したい人物のひとりだ。
以前、彼の孫で、戊辰の役で会津・大芦村で戦死した五十松(19歳)のことを
モチーフにして書いたことがあったが。